昭和50年02月19日 朝の御理解

 御理解 第21節
 「信心せよ、信心とは和賀心が神に向かうのを信心と言うのぢゃ、神徳の中に居っても氏子に信なければおかげはなし、カンテラに油一杯あっても芯がなければ火が灯らず、火が灯らねば、夜は闇なり信心なければ世界が闇なり。」
 
 信心とは和賀心が神に向かうのを信心と言うのぢゃ、和賀心が神に向かうて居なかったら、それは如何に神様を拝んでおっても、参っておっても言うならば信心ではないと言う事です。和賀心が神に向かうと言う事はどう言う事かと、カンテラに油一杯あっても芯なければ火は灯らんと。言わば火が灯る程の芯がなからなければいけない。心が生々としておらなければならない。
 それは丁度植木の様なもんです。目には見えないけれども、何時も生々としてやっぱり日々成長しておる。例えば枯れた木が如何に天に手を差し延べる様にして、植えておっても枯れた木では、もうそれは信心ではないと言う事です。枯れた木と言うのは枯れた心、生々したものを亡くした心。神様どうぞ助けて下さいと、こう天に手を差し延べておる、例えばそれは植木の様なもの。
 枯れた心では神様はもう助け様と思われても、助け様がない。伸ばそうと思うても伸ばし様がない、根が枯れているのですから。それで火が灯ると言う事にはなりません。火が灯る程しの、生々とした心と言うのが大事です。信心とは和賀心が神様に向かうのを、生きた心で神様へ求め続けると言う信心です。心が生きておらねばいけません。所が私共の心と言う者は、生々とばかりはなくて、しおれておる事もある。
 火が灯る所か反対に真っ黒になっている時もある。ですからそう言う時に、例えば修行さして貰う。今朝此処へ出たら、この前の寒修行の時の写真が、アルバム一冊になって出来ておる。それを一寸見せて頂いたんですけれども、もうそれこそ暁雲を衝いてと申しますかね、朝のシジマを破って皆さんが合楽へ、合楽へと通うて来る。それこそあの四時から五時迄の間は、此処の久留米、日田間の、この道路の流れが変わると言う位、四時から五時迄の間、佐田さんのおばあちゃんが、言ってありましたが。
 久留米のほうからズーッと自動車でやって参りますと、サーッと追い越して行く車がある。追い越したが誰方の車ぢゃろうかと思いよると、合楽の近所まで来ると、皆んなそれが合楽に入って行く。吉井の方からも続いて車が来よる。それが皆合楽の中へ吸い込まれる様に入って行く。成程あの四時から五時迄の間、この通りの流れが変わると言う程しの、生々とした、私は全然外へ出て居ませんから、どう言う状態か一つも解りませんけどそう言う状態に、触れただけでも心が弾んで来る。
 駐車場はあの大駐車場に溢れるばかり、時には賛同まで車がズーッと並んで居ると言う様な状態、生々として合楽へ合楽へと車が吸い込まれる様に入って来る、あの一時間の間は、それこそ流れが変わる程しの一つの勢いと言うか、私は生々としたと言うものはそう言うものだと。そう言うものに触れる時に、言わばこちらの心までも生々として来る。和賀心が神に向かうと言うのは、そう言うあの寒修行に、合楽へ合楽へと向って来るあの勢いが、自分の銘々の心の中にある事だと思います。
 先日各教会でなくて、こちらから築水の方から久留米の播磨さんと、合楽から綾部さんが、福岡で偉い人達ばかりの会議が御座いました二、三日前。一昨日そのお届けをしておられましたが、合楽の今度の寒修行はどうでしたか、と聞かれて在りのまヽの話をされた中に、もうそげな話し聞くと腹の立つけんで、そげな話しは聞くめえと言うて席を立った人があった、ち。例えば本当に寒修行の様子を聞いたら、それこそ腹の立つごと勢いがある。まぁあの頃の写真を見てご覧なさい。
 後で見てご覧になりもうそれこそもうお広前は立錐の余地も無い様に、もう一杯の参拝者で然も真剣にみ教えを頂いておったり、御祈念をなさっておられる姿が写真が出ております。是を見ただけでも心が弾む。私はその弾んだ心だと思う、神様へ向かう心と言うのは。だからそう言う心で私は何時もありたいのだけれども、実を言うとそう言う朝参り、寒修行の様な事ばっかり出来ない。
 そこに銘々の工夫がいるのぢゃないでしょうかね。昨日の月次祭のお説教に私が聞いて頂いた様に、お互いの信心内容と言うものが、二、三日前に御神前で頂きましたが、いの一番に命ある事と言う。そしてずっと教え歌の様に五つまで頂いとりましたけど、それは素晴らしい事だったんですけども、忘れてしまている。只いの一番に命ある事と言う事だけが、印象に深く残っておる。だからその事を皆さんに聞いて頂いた。
 本当にいの一番に命ある事、命があると言う事に心から、言わば感謝の心を持つ目覚ましのおかげを頂いたと言う事だけに、有難いものを感じれる様な信心、そういう信心が私は生々とした信心だと思う。目が覚めたあヽ起きらんならん、また朝参りをせんならん例えば言う様な事でなくて、もう目が覚めたその時点で、今日もお生かしのおかげを頂いておったと、そこに湧いて来る様な信心。
 そう言う信心がです、仲々その日でもそう言う目覚ましのおかげを頂くと同時に、有難いと言う者が湧いて来ると言う信心は、仲々出来ません。けれども段々内容が調うて参りますとです、確かに目が覚めるそこに心からお礼を申し上げる。例えば痛くても痒くても、兎に角生ある印である、生きておる印である、と思うたら、言わば熱のある事もまた有難い。痛い痒いもまた有難い。
 色んな問題がある難儀を感ずる、けれども感ずると言う事その事がです、生きておる印だと思うたら、問題がなくなってしまう程しに有難い者にならなければならない。成る程いの一番命ある事である。命があると言う事は、それ程大変な大した事である。とそれが実感として頂ける様な信心を身に付けたい。其処に今日の御教えの様に、和賀心が神に向かうて進んでおらなければならない。
 大きな木が生々として天を摩す様な、言うならば木がそこにある。その一寸目にはどれだけ太っとるか伸びとるか解らんのだけれども、それが年々歳新しい芽を出して新しい枝を出しておる所を見ると、それは生きておるからであるそう言う風に生きて伸びて行かねばいけない。所が如何に何十年信心しとりますと言うても心が枯れておって枯れた木が如何に天に手を差し伸べておっても。葉も出らなければ勿論花も稔りもないでしょう。だから如何に自分の心を生き生きと神様へ向ける工夫が要るかと言う事であります。
 しおれかかった、例えば花でも、根元を焼いたり叩いたり致しますと、また新たな水上げを致す様に、そう言う工夫が要るのです。そこで私は夕べ皆さんに聞いて頂いた様に、いの一番に命ある事と言う事の、二番、三番、四晩、五番と、五つまで頂いたが、どんな事だったろうかと思うけども思いださない。そこで是は言うなら、私の頭の中に浮かんだ心に言うなら感じた事を此処に五つ書いて見た。
 いの一番に、命ある事。
 二つには、不意のお試しに気を付けよ。
 三つ、見る事自分を見る事。
 四つ、善い事悪い事、取次ぎを受けたら皆んな良い事。
 五つ、いらいら腹立つ時は、神を放している時ぞ。
 と言う風に、まあ私の心に浮かんだのを、此処に記させて頂いた。ですから私共がこの五つの数え歌の様な御教えをです、自分の心の中に掛け通しに掛けておったら、心は何時も生々と神様へ向って、弾んで来るだろうと思うのです。何時お試しがあるやら解らん。信心が進んで来れば進んで来る程、何時お試しがあるやら解りませんぞと、教祖様は仰っとられる。試されると言う事は神様が次のおかげを下さろうとする事の為に、どうでも試しなさらなければならない、理由が生まれて来るのです。
 是は神様としてです、是はより増しなおかげを下さろうとする前にです、先ず神様は試しなさらなければならないものを、神様がお感じになる。中学校から例えば高校に進学させたい為には、まず試験と言うものが必要である様にです、必要になって来る様にです、中学校から高校へ進学すると言う事だけでも、そうである。信心の段階を追うて、一段と信心が進んで行く、進めて下さる。
 おかげの世界も拡がって行く事の為には、先ず神様がお試しなさる。用心なされ信心が少し実が入って来ると、神様のお試しがありますぞと教祖様が仰っておられます。ですから何時お試しがあるやら、試験があるやら解らんと言う様な私は心がです、普段しっかり勉強しとかねばならないと言う事。心に懸けておかねばならない事。そう言う心で神様へ向かうならば、確かに心が神様へ向かうと言う事はそう言う事だと思う。
 どう言う例えば問題が起ってもです、それはどんな難儀な様相を見ておってもです、その難儀な様相の実体と言うものが、人にあるのではない、外にあるのではない、社会にあるのではない、自分自身にあるんだと言う事に、気が付かして貰う為には、本気で自分を見極めなければいけません。そこには相済みませんより他にはない。その心から、相済みません心こそ私は生々とした心だと思う。
 同時に四つ善い事悪い事取り次ぎを受けたら、皆んな良い事と観念させて貰う。そう言う自覚が出来て来る迄の信心、どう言う場合であってもです、赤と願って白となってもです、それがお取り次ぎを頂いての事であるから、間違いはないんだと言う、受け止め方が出来る様にお願いしとったけれども、右と願っとったけれども、左となったと言う心はもう、是は枯れた心です。お取り次ぎ頂いての事であるからと、頂く心が言うならば、生きた心です。
 五ついらいら腹立つ時は神を外すしている時と悟らして貰わにゃいけん、ね。いらいらしよる、あっち行ったりこっち行ったりしよる、落ち着かない同時に腹立つなどと言う事は、愈々以って神を外して居る時だと、解らして頂いてハッと気付かせて頂くその心が生きた心である。そう言う心を以ってです、私は神様へ向うて行く事が信心と。信心とは我が心が神に向うのを信心と言うのじゃ。あヽ人でなかった私だったとホット気が付かせて頂く時腹が立つ時、いらいらしよる本当に今神様を外して居る時だと。
 ホッと気付かせて頂くその心で神様へお詫びをする、お礼を申し上げる。お願いをさして頂くそこにはです、そう言う真に信心の熱がこもる時に、心の中に一辺に心がパッと光りが灯った様に明るくなる。火が灯らねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり、と仰せられるのですから、そう言う心で愈々合楽示現活動、世の中を愈々明るくして行く、清めて行く所の運動である所の、合楽示現活動の働きと言うものがなされる。
 我が心が神に向かう、まあ色々に、それは頂いて良いでしょう。愈々今日はいっちょ合楽へお参りしょうかと、たまに参って来る人が思うたら、すでに心が合楽に向かっておるのですから、和賀心が神に向かった訳でしょう。それは心に生きた心がなくてもです、一歩合楽へ足を向けただ最後、もうそれは神へ心を向けたのも同じでした。おかげが受けられるのです。けれども此処で言うのは。今日私が皆さんに聞いて頂きたいのは、それも和賀心が神に向かうたのですけれども。
 だからおかげを受けるのですけれども、和賀心に火が灯る程しのもの今日はそこん所を聞いて頂いた。為にならこの五つの数へ、教えではないですけれどもこう言う内容が、何時もあって心がハッとする程に生々として来る。そう言う心で神へ向かうと言う信心是なら必ず信心が伸びるのです。信心が太って大きくなって来る。ですから勿論芽も出りゃ葉も出る、花も咲くのであります。言うならば、お徳が受けられると言う訳ですよ、ね。
   どうぞ。